時間はゆっくりと流れる。焦れたように父親を見る彼の視線に気づき、のろのろと顔を上げた父親は、くしゃりと泣きそうな顔で笑った。
「幸せに…なってほしかったんだ。悠美子さんには、誰よりも。だから、ボクが一緒にいちゃいけないと思った。どう考えても、ボクが悠美子さんを幸せにできるとは思えなかったからね」
「その意見には、全面的に賛同するが、だからと言って、黙って消えた挙句、それっきり音沙汰なしでいいわけがないだろ?」
結局、言い訳だ。全部、父親に都合のいい言い訳。そう思うと、彼の声はいっそう低く、冷たくなっていく。
「離婚するなり何なり、もっとやり方があっただろう?」
――本当におふくろの幸せを願っていたというのなら、正式に離婚して赤の他人になるべきだった。普通の人間ならそうする。と言うか、そうしないわけがわからない。
黙って消えた夫をあっさりと見放して、新たな人生を歩けるような薄情な人間ではない。むしろ、彼の母親はずっと待ち続けるタイプだ。
――史上最悪なダメ男を見捨てられず、結婚し尽くしていたおふくろが、そんなこと、できるはずがない。ちょっと考えれば、いや、考えなくてもわかるはずだ。それがどうして、目の前のバカにはわからなかったのか…。
「悠美子さんは優しすぎるから、ボクを見捨てられないんだ。どんなことがあっても、しょうがない人ねってボクを許してしまうんだ」
「それがわかっていて、なんでっ!」
「だからね、たぶん離婚をしたいと言っても、悠美子さんは頷いてくれなかったと思うんだ」
都合良すぎる。父親の言葉に反発したい彼だったが、妙に納得してしまう。
「あぁ…、おふくろならそうかもな」
――あのおふくろなら、底が見えないほどのダメなこの男すら、見捨てることができなかったんだろう。あのおふくろなら…たぶん。
「それに、ボクは悠美子さんが大好きだったから、今でもすごく大好きだから、自分から別れようなんて…そんな悲しいこと、言い出せなかったんだよ」
「なに身勝手なことを! やっぱり、クズ野郎だな。結局、おふくろのことなんて考えてねーじゃん。あんたが辛かろうがなんだろうが知ったことかよ。何だかんだ言い訳したって、おふくろが死ぬまで放ったらかしにしてたのは事実だろ?」
そう言い放った彼に、父親は寂しそうに視線をよこし、眉を寄せる。そして、もう一度、ポツリと呟いた。
「そうか…悠美子さんは、もうここにはいない、のか」
その言葉を聞いて、改めて、母親はもうこの世のどこにもいないということが、彼の胸に落ちてきた。思わず涙が零れそうになり、グッと唇を噛みしめる。
――こんなヤツの前で、泣きたくなんかない。
睨むような視線を父親に向けると、穏やかな瞳が彼を見つめていた。
「な、なんだよ」
父親は、少し透けている腕を彼へと伸ばし、その頭をゆっくりと、少し遠慮しながらなでていく。まるでなぐさめるように、励ますように。
――感触なんてあるはずないのに、何だか…ぬくもりのようなものが、伝わって…くる。
父親は黙って彼の頭をなで続けた。気がつけば…、彼は泣いていた。
――おふくろが死んだときも、葬儀の最中も、一滴の涙もこぼれなかった、のに…。
彼の両目から、涙がとめどなくこぼれ落ちる。そんな彼の頭を、父親は何も言わず、そっとなで続けた。
「(嗚咽)」
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