「社長が私の能力を高く評価してくださるのは有難いですが、私は他に移る気はありません」
「前にもそう言ってくれたね。あの時は素直にうれしいと思ったよ。しかし、本当にそれでいいだろうか。キミにとってうちみたいな会社にいるメリットはない。なにひとつね」
たしかにそうだ。だって給料安いし、残業多いし、社食はないし、イイ男もいない。禁煙なんてどこの世界の話ってくらい空気は悪いし、仮眠室にはユーレイ出るし…私はまだ見たことないけど、もっぱらの噂だし。あとは…えーと、社長が似非ジローラモだし。
会社のデメリットを指折り数えて目眩がしてきた。欠点だらけだったのか、うちの会社。うすうすは気づいていたけど。
でもなんで伊織さんは、こんなヘッポコ会社にいてくれるんだろう?
「それに、うちはキミに頼りすぎている。キミなしじゃ何もできないなんて、情けないとは思わないか?」
伊織さんは何も言わない。いや、何も言えないのかもしれない。
たしかにうちの会社は伊織さんなしでは立ちゆかない。それはひよっこの私がいうのもおこがましいけど、まともな会社の形態とは言い難いと思う。伊織さんもそのことはわかっているはず。そして、自分が抜けるデメリットの大きさも。だから、決心がつかないのかもしれない。
「私たちはもう、キミから卒業しなくちゃいけない。たとえそれで会社が潰れるようなことになったなら、うちはそれまでの会社だったってことだ。たった一人、営業が抜けただけで傾いてしまうような砂上の楼閣だったと。そんな脆いものを、キミを犠牲にしてまで守る必要なんかない」
やだ、なんだかちょっと感動してきた。似非ジローラモなくせに、カッコいいこと言うじゃん、社長ってば。
「それに、キミもうちの会社から卒業しなくちゃいけないんだよ。もっとキビシイ世界へ出て、躓いたり、転んだり、苦しいことや嫌なこともいっぱい経験して、もっと自分に磨きをかけていかなくちゃ。ダイヤだって、彫り出して磨いてこそ価値が出る。人間も同じだ。うちにいたんじゃ宝の持ち腐れだよ」
うつむいたままじっと社長の言葉を聞いていた伊織さんが、ふいに顔を上げ、まっすぐに社長を見つめ返す。その瞳に、強い信頼の光が見える。
きっと伊織さんは、社長のことをとても尊敬しているんだ。その気持ちは、大企業の看板や高いお給料には代えられない、ものなのかもしれない。だから、ヘッドハンティングに見向きもしなかったんだ。
「考え…させてください」
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