「とりあえず、荷物は全部運んだ…っと」
引越し業者も頼まず、ちまちまとひとりで荷物を運び込んだ彼は、麗しの新居でひと息をつく。
「やれやれ、だ。とりあえず、風呂でも入って汗を流すか。ちんまりとしたユニットバスだが、付いているだけでありがたい。贅沢言える身分でもないしな」
バスルーム、なんて気取ったスペースではないけれど、そちらへ足を向けようとした彼は、ふと、小さな存在に目を留める。
「これ、おふくろがいつも聴いていた…」
グッと狭くなった生活スペースに母親の思い出を残しておく余裕はなく、彼は唯一、母がずっと大切にしていたオルゴールだけを手元に残した。古びた畳の上にダンボールが数個、遠慮がちに置かれている部屋で、彼はオルゴールのネジをゆっくりと巻き上げる。
時折、ひとりでこのオルゴールを聴いていた母親の姿が彼の脳裏に浮かぶ。その幻に彼がそっと話しかけようとした瞬間、
ガタンッ!
「何の音、だ?」
不思議に思って部屋を見回すと、窓のところに…何かが、潜んでいた。
「ま、まさか…な」
信じたくない気持ちはよ~くわかる。
「落ち着け、オレ。たぶん、ちょっと疲れているだけだ。けっこう重労働だったからな、引っ越し」
否定したい気持ちも、よ~くわかるよ。わかるけどさぁ。
「ハハハ…と、とりあえず、深呼吸でもしてみるか」
ねぇ、そろそろ認めたら?
「オレ、今、見えちゃいけないものが見えちゃってる…よな?」
だね。
「だから安かったのか、家賃!」
そうかもね~。
「事故物件ってたしか、告知義務ってやつがあったよな? 聞いてない。聞いてないぞっ!」
と、ひとりジタバタ葛藤しつつも、彼の目線は「潜む何か」に釘付けになっていた。それは、一向に消える気配がない。ぼんやりと陽炎のように見えるそれは、確実に人型でありながら、決して生きている人間ではない存在感を放っていた。
「情けない息子が心配なあまり、おふくろが出てきた…とか?」
いや、そうじゃない。じわじわとはっきりした輪郭を描きつつあるその姿は、あきらかに男のものだった。
「おいおいおい、オレってそういうの見えちゃう体質だっけ? 初めてのひとり暮らしで、こんな歓迎、うれしくもなんともないんだけど」
怖いという気持ちがありながら、彼はなぜかその姿から視線をそらせないでいた。なぜなら…。
「あれ? どこかで見たことが…ある?」
疑問符を頭の中に浮かべながら、彼はひたすら、それを見つめ続けた。すると…「潜む何か」がしゃべった!!
「もしかして、見えて…る?」
「ひっ!」
思わずこぼれた声ごと飲み込むように息をし、いきなり声を発したそれを、彼は思わず凝視した。不安そうに見つめ返すその顔に、どうやら見覚えがある…ようだ。
「え? そんな、はずは…」
よくよく見ればその顔は、行方知れずになったきり、25年間も音信不通だった彼の父親に違いなかった。
「ウソ、だろ?」
彼は意味もなく瞬きを繰り返し、同じようにパチパチと瞬きする父親と見つめ合ったまま、動けずにいた。どれくらい時間が過ぎただろう。先に金縛りがとけたのは父親の方だった。
「懐かしいメロディが聴こえたな~と思ったら、ここにいたんだ」
―ーあの、オルゴールが…父親を呼び、寄せた?
出て行ったきり帰ってこないばかりか、連絡の一つもよこさなかった父親が、かすかなオルゴールの音色ひとつで帰ってきたことに、彼は少々、複雑な思いを感じる。
ーーもしかして…、大切なモノなのか? 親父とおふくろの、想い出がこのオルゴールにはあるのか?
おそらくね。
ーーチープな作りの、どこにでもあるようなありふれたオルゴール。けれど、おふくろがずっと大事にしていたオルゴール。おふくろは待っていたのだろうか。このオルゴールを聴きながら、こんな身勝手なダメ男を。おふくろを裏切った不誠実な男の帰りを、ずっと待っていた…のか?
胸にモヤモヤと苦いものが広がる。そんな彼の胸の内をまったく知らず、気にもせず、父親はうれしそうに笑っている。
「大きくなったなぁ」
呑気にそう言い放ち、うっすら涙すら浮かべている能天気な親父の姿に、彼は怒りがこみ上げてくる。
ーーおふくろの苦労も、オレの淋しさも、小指の先ほども理解していないって、その顔が無性にムカつく!
しかし、どんなにその顔を睨んでみても、父親は相変わらず、ニコニコと彼を見ていた。
ーー言いたい文句は山ほどある。あるのに…、いざ口にしようと思うとうまく言葉にならない。
歯がゆさに唇をかみしめていると、ふと、彼は何かがおかしいと感じた。
ーーいやいや、どう見てもユーレイな親父を目の前にして、いまさら違和感もへったくれもないが、それでもやっぱり、何かが変だ。
彼はそのままじっと父親の顔を睨みつけて、いきなり、あっと気がついた。
「あんたさ、死んだの、いつ? もしかして、出て行ってすぐ死んだ?」
一瞬、父親はきょとんとした顔をする。けれど、自分の身を案じてくれたとでも思ったのか、すぐに笑顔になった。
「死んだのはついこの間、かな。酔っ払って転んだら、そこにたまたま大きな石があってさ、打ちどころが悪かったんだねー」
まるで他人事のようにへらりと言う父親に、彼は呆れた視線を返す。
ーー本人もすこぶる残念な男だけど、死因がもう残念すぎて言葉もない。
とは言え、聞きたいことはまだあった。彼の中の疑問は解決していないのだ。さあ、気を取り直して、聞いてみよう。
「じゃあさ、なんであんたは出て行った日の姿のまんまなの?」
そう、彼の目の前にいる父親は、どう見ても彼と同年代にしか見えなかった。本当なら、50を過ぎた年齢のはずなのに、その姿は25年前に出て行った頃の、30手前のままなのだ。
「うーん、だって年をとったボクの姿、見たことないでしょ?」
「当たり前だっ! あんたはずっと行方知れずだったんだ。知るわけないだろ!」
彼の尖った物言いに、眉を八の字にした困り顔で、さらに父親が言う。
「たぶん、キミの記憶の中にあるボクの姿がそのまま再生されてるんじゃないのかなぁ。あ、でも、どういう理屈かとか、難しいことは聞かないでね。わからないから」
テヘっと笑う父親に、うっとおしいと物語る視線を投げかけたものの、とりあえず彼は、その言い分を受け入れるしかなかった。
ーーこの状況を理路整然と理屈で説明されても…とは思う。だからまあ、こいつの大雑把な説明で納得してやることにする。するけれど、自分と大して変わらない若造の顔して、涙ぐみながらこっちを見ているのがユーレイになった親父だっていうのは、一体、何の冗談なんだよ。
質の悪いB級ホラーか、はたまたブラックコメディか!
ーーはぁぁぁ…。
こうして、記念すべきひとり暮らし最初の夜を、彼はユーレイになって迷いこんできた父親と過ごすことになった。
ーーまったく不本意だがな。
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