私が恋した不思議な少女は、ある夜、「月に帰る」といって姿を消した。
まるで、彼女などこの世のどこにも存在しなかったかのように、跡形もなくいなくなってしまった。
誰も、彼女のことを知らない。思い返せば私も、佳月という名以外、彼女のことを何も知らないことに愕然とした。
だから、信じるしかなかった。彼女が残した言葉を。私に語ったおとぎ話のような身の上を。信じて待とうと思ったんだ。
「水月さま。お話があります」
「どうしたんですか、改まって」
「私は明日、月が満ちる十五夜の夜に、月へと帰らねばなりません」
「月へ、帰る?」
「私は、月の宮の姫。この地の国とは別の世界で生きる者でございます」
「何を、言っているんだい?」
「朔の夜に、誤って私は地上に落ちてきてしまいました。そのときは帰る術がなく、月が満ちるのを待っていたのでございます」
「そんな、こと…」
「信じられないかもしれません。けれど、真実です。私は月の宮の姫。このまま、地の国で過ごすわけにはいかないのです」
「月の、姫…」
「ですから、私は月へ帰ります」
「私を置いて、帰ってしまうと言うのかい? 交わした心は、偽りだったと言うのかい?」
「いいえ、偽りなどではございません。この身も、心も、すべて水月さまのものでございます」
「けれど、あなたは私の前からいなくなると言う。ともに生きたいという私の願いも、あなたのために生きると決めた私の決意も、すべてなかったことにして、帰ると言うのかい?」
「いいえ、いいえ。私は、佳月は、必ずや水月さまの元へ戻ってまいります。お父様やお母様に許しをいただき、再び、この地の国へ戻ってまいります」
「本当に?」
「はい、本当にございます。ですから、これはしばしのお別れ。ほんの一時のことでございますよ」
そう言って笑った彼女は本当に美しくて、気高くて。月の宮の姫という言葉を素直に信じられた。
いや、信じたいと思った。そして、満月の夜に、彼女は月へと帰っていったのだ。
「水月さま。どうぞ、待っていてくださいませ。佳月の心を置いてまいります。ですからどうか、どうか、待っていてくださいませ」
彼女が去った後、私は信じて待った。愚直に彼女を待ち続けた。
一年経ち、二年経ち、三年が過ぎても、私は待っていた。信じていた。それしか、私にできることはなかったから。
彼女に贈ると約束したかんざしを作り続けながら、毎夜、月を見上げ、その満ち欠けを見送りながら、ずっと、ずっと、彼女を待っていた。
時が過ぎ、彼女のために作り続けたかんざしが、名人と呼ばれるほどになった頃、私は弟子を取った。
不器用な男で、まったくもってかんざしづくりに向いているとはいい難い。そんな不出来な弟子であったが、私は自分の技を、どうしても誰かに継いでほしかったのだ。
いつか、彼女が戻ってきたときに、最高に美しいかんざしを贈るために。
そう、私は信じていた。彼女を。そして、待っていた。最期のそのときまで。
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