いつも通っていたはずの道なのに、
これまでまったく気づかなかった狭い路地。
その先になぜか無性に心惹かれた。
そっと路地をのぞいてみれば、
軒先に提灯を下げた、小さな引き戸がポツリとあるだけ。
他にはなにもない。
見えない何かに誘われるように、
僕はふらふらと路地へ引き込まれていった。
小さな引き戸を開け、暖簾をくぐった先に広がっていたのは、
見たこともない光景…ではなく、
何の変哲もない居酒屋のそれだった。
少し拍子抜けした僕に、出迎える声がかかる。
「いらっしゃい」
元気いっぱいでもなければ、妙に色っぽいというわけでもない。
けれど、なんだか懐かしくてあったかくて…。
その平凡なひとことが、やけにじんわりと響いた。
この不思議な安心感を、なんと説明したらいいのだろう。
我が家に帰ってもこれほどホッとはできないと思うくらい、
僕は初めて訪れた店で、心からのくつろぎを感じていた。
運ばれてきたごく平凡な銘柄のビールをちびちび飲みながら、
ありきたりのつまみに箸を伸ばし、
改めて店内をぐるりと見回してみる。
驚くほどたくさんの人が、同じように酒を呑んでいた。
どの顔も心からくつろいだ、満足げな表情をしている。
きっと傍から見れば僕も、彼らと同じ顔をしているに違いない。
それにしても、
どうしてこうも、この店は居心地がいいのだろう。
何も特別なことはないのに、まるで席を立つ気にならない。
いつまでもここでこうして、呑んでいたいと思ってしまう。
けれど、この心地よさの意味を、僕はまだわかっていなかった。
この店を訪れてから、5日目の夜が来た。
僕はまだ、この店から帰れないままでいる。
朗読/山口龍海